2017年ふりかえりと一杯の水について

2017年を振り返る気持ちになれたのは29日のお昼くらいからで
それまでは頭の天辺から爪先まですっぽりと2017年の波の中でした。
主立ったこととしては、
4年間勤めていた職場を3月に辞めて
つい先日、京都にて新しい仕事に就きました。
次の春までに京都へ引っ越しの予定をしていて
イコール大阪のこの部屋を出ることになるのですが
それがよく理解できてなくて寂しさがここまで届いてない。
まだそんな感じです。

両手を開くために幾つかを手放して軽くなった体であちこちで転んで。
その度に、ほんとうにいろんな人が親切にしてくださった。
生まれてこの方ずっとそうなんですが
出来事として浮かぶことがあまりに多くて
他力のありがたさを感じるばかりの一年でした。
ありがとうございました。
至らないままですが来年はもっと力強く歩めそうな気がしています。

詩集は新装版を含めて4冊。
100篇の詩で参加させてもらった音楽集がひとつ。
朗読の機会は全部で8回。その内今宵は4回。
その間に企画展とかにもいろいろ出してました。
去年からですが今宵は毎回読むものを書き下ろしているので
厚みのある新刊は作ってないと言っても
今年も振り返れば多く書いたほうなんじゃないかなと。

そんな中、夏の頃に書けなくなったということがありました。
誰にも読んでもらえないかもしれないけれど、
自分が読みたいことを携えてゆける形にしてみよう。
そう思って書き出したのが今年最後に作った『一杯の水を注ぐ手紙』です。
一冊で一篇になっていて、
まるごとあれが自分のリハビリ(リカバリー)の日々でした。
書かなくてもいいことを書けば、
近所のセブンイレブンの灰皿の前で毎夕、その日書き進んだところをなぞっては削って
一篇と一緒に生活をしているような近さだった。
あんなに書けなかったのに、最後にはすこし書き終えるのが惜しいとさえ思えたこと。
大丈夫だとひどく安心したこと。

出来上がった「手紙」は私宛になるのだろうかとぼんやり思っていたけれど
いただいた感想の中にはおしなべて「誰か」の存在に触れた感覚について書かれていて
具体的な表現は書かないけれど、数人の言葉が重なっていて驚いてしまった。
自分はなにを書いたんだろう、とふしぎな気持ちにもなった。
詩の中では私もあなたも誰かも代替可能のように思えるけれど、
あなたがいるその場所で私は書いていたんじゃないだろうか。
そんなことを思う。
あるいは私がいたあそこ、今はもう振り返っても見えないその場所へ
誰かが訪れることもあるのかもしれない。

来年は2月〜4月に大阪にて展示を予定しています。
期間が長いということもあり、朗読などのイベントもさせてもらえるかもしれません。
会期の中に真冬から春を迎えにいく一番すきな季節におまけに誕生日まで入っていて
たのしみです。また不定形巻き込み型な展示になるかと思いますが続報お待ちください!
あと引っ越し前に「ひやわま」でも朗読ができたらなあと思っています。
これは昨日思いついて話させてもらったばかりなので日時など未定ですがきっと!
また、高野裕子さんとの「今宵に名前をつけるなら」も来年も引き続き開催してゆきます。
今年開催が叶わなかった町にも出かけてゆきます。
多くの方にもいつもの方にもお会いできますように。

来年の標語は「全生き」にします。
全部生かす。全部で生きる。
全力も全身も全霊も全部盛りでおねがいします!
本年もありがとうございました。
来年もどうぞよろしくお願いいたします。

みなさまあたたかくおだやかな新年をお迎えください。

画像は今朝書いた大晦日という詩です。
テキストもおいておきます。



「大晦日」

僕は僕の母としていかにあったか
寝食の健やかさを願い優しく在れたか

僕は僕の医者としていかにあったか
病を騙さず怪我無き日々を重んじたか

僕は僕の友としていかにあったか
仕様もない道草に付き合ってやれたか
言葉無きところに笑いかけてやれたか

僕は僕の夢としていかにあったか
この拙さの前に路を敷いてやれるのはお前しかいない
目を憚るほどの光源が照らすのはお前ただ一人なのだ

熱い茶を二つ囲み
息を大袈裟に吐き出せば
どちらからともなく笑い出す

話をしよう
僕はお前をよく知っている